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おうち。。。

☆女工哀史、ああ、野麦峠。

野麦峠とは、岐阜、長野県堺の標高1672m・・・飛騨と信州を結ぶ交通の要衝で厳しい難所でした。

明治、大正、昭和にかけて、信州の製糸工場へ糸引きに行く飛騨の工女たちが
吹雪の野麦峠を越えが 繰り返されました。

このお話しは ”ああ、野麦峠”の物語で知られています。

明治36年、2月。北アルプスの白い峰を背に、点々と松明の明かりが続く。
それは、100名以上もの飛騨から信州諏訪地方へ向かう少女達の集団でした。
 
毎年、飛騨の寒村の少女達は、わずかの契約金で岡谷の製糸工場へ行くのです。
赤い腰巻にわらじを履いて・・・
「カカサマ、トトサマ、あばよな。行って来るでな」
親、兄弟に思いを秘めながら、別れの言葉を残し、
吹雪の野麦峠を越えて行ったのです。

政井みねも新工(シンコ)として、働く事になり、
背丈程もある深い雪の中、野麦峠を越えて3泊4日の40里の旅に
出ました。
やっと、岡谷の工場に辿りついたと思うと、
休む間も無く、早速、次の朝から仕事が始まるのです。
 
朝4時半・・・機械の原動力の天竜川にかかる大水車が動き出します。
蒸気とサナギの臭いが立ちこめる工場内に 糸繰り機の鍋の熱い熱湯の中で 繭が踊り、工女たちの指先が糸をつまみ出します。

信州を始めとして全国の製糸工場から出荷される生糸は、
横浜の生糸問屋をへて、欧米諸国へ輸出されて行きました。
明治日本の富国強兵の為の外貨獲得は、
この様な工女たちの手にゆだねられる年月であったのでした。
 

故郷を出しより、3年後。みね達は 一人前の工女になっていました。
取り出す生糸は 一定でなければ、輸出用とはなりません。
毎日の検査で国外向けにならない糸を出した者は、みんなの前で 検番から、罵倒され一定基準に合格しない場合は、当人の給料から
罰金を差し引かれるとゅう厳しい制度でした。
その中で みねは優等工女となりました。
 

年の暮れ・・・
糸引き工女たちは雪の野麦峠を越えて帰郷する事が許されました。
1年間働いて貯めた、当時のお金で20円~30円。
大事な給金を懐に入れ、家族の元へと急ぎます。
飛騨の家では 糸引きさん達の働いてきた、そのお金でお正月を向かえたと云います。


みねには、最愛の兄辰二郎も待っていてくれます。
家族との再会は 1年の辛さを忘れさせてくれる大事なひとときでした。

明治41年。アメリカに不況が訪れ、生糸の輸出は止まりました。
その為、国内向けに数多くの生糸を生産するしか、工場の倒産を逃れる
すべは、ありませんでした。

労働強化は、ますます厳しくなっていきます。
 
みねは、この時、結核におかされていました。
工場では、病気になった工女への扱いは酷く、みねが病気と言う知らせを受けた 兄、辰二郎は、夜を徹して、岡谷の工場へみねを迎えにいったのです。

・・・その時、みねは、無残にも物置小屋に放り出されていました。
辰二郎は 衰弱しきったみねを背負うと
無情な工場をあとにして、飛騨への旅路についたのでした。
 
時は秋・・・
野麦峠は、燃えるような美しい紅葉に彩られ、あまりにも優しくみねを向かえてくれました。

峠の頂で休む みねの目の前には 夢にまで見た懐かしい飛騨の山々が広がっています


・・・・あぁ。あんさ。
     飛騨が見える。・・・飛騨が見える。

一言、二言・・・苦しそうに言うと、静かに死出の旅路についたのでした。

明治、大正、昭和にかけて・・・たくましくも可憐な少女達が超えた野麦峠の頂には この時の兄に背負われたみねの像が立てられ、今もなお、みねの足跡を辿って険しい峠を行き交う 旅人たちの胸を熱く・・・熱く、染めているのです。


このお話しは、私を指導してくださった先生が、教習生用に作ってくださったものです。

コピー、転載する方はいないと思いますが 御遠慮ください

大体、15分ぐらいの物語でしょうか?

実際に 現在、私がお客様へ御案内しているもの40分位ありますので、ここに載せたものとは、かなり違います。

大竹しのぶさんが みねを演じ、映画化された時に 
御覧頂いた方もおられるでしょうが、

険しい野麦峠を越えていった工女たちのお話しのエピソードについては、

何時の日か、バスで出会う事があったら、お話しさせていただきますねー。

最後まで、お付き合いいただいた皆様。

お疲れ様でした。(笑)



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